昭和四十六年四月十九日 朝の御理解
X御神訓 「食物はみな人の命のために天地乃神の造り与えたまうも
のぞ」
食物は皆人の命のために天地乃神が造って下さった。神様がお与え下さったものであります。ですから私どもが本気で、本気で命のために頂かねばいけません。又そのように尊いものなのですから、それを大切にせなければならないことは勿論、食物そのものを大切にする。例えばお食事をさせてもらう時に、その一つ一つのお野菜でもお魚でも、その味を味あわせて頂きながら、本当においしいと言って頂いたら、それは神様に一々届きよると思いますね。喜んで頂く、美味しい。ところが、「これは甘いの辛いの」と不平不足を言う頂きようでは、神様がお喜びにならないと思いますね。
皆さんもそうでしょう、人に物を差し上げたら、有難いと喜ばれたら嬉しいでしょう。こげなもんどん持って来てと言われよるとがっかりするでしょうが。同じなんです。ですから私どもがね、御食物を頂かして貰う時に、本当に有難いなあと。美味しいということよりも有難いなあと言う時、神様は喜んで下さる。ですからお食物を大事にするというて、今度は大事にする余りに、「これは余ったから捨てるには勿体なかけん」と言うて食べる。下痢を起こしたり、腹痛起こしたり、胃が痛んだりしたんではこんどは肝心要の命の方を害する。
何か難しいとこういう、命はまた食物と同じ位に尊いものであり、又有難いものを神様に頂いとることになる。ですからお恵み与えて下さる食物も尊いなら命も尊い。そこで、これは余ったから勿体なかからと言うて食べてしまってから、お腹が痛いというのでは、今度は命のためにではなくて、命を害するために頂くことになりますから、それはお粗末、ご無礼になるね。
だからこの食物訓だけでね、本気で頂いて御覧なさい。金光様の御信心というのは、あれも御礼これも会得した、しなければというのでない、それを御教えだけでも本気で頂いたら病気も癒えます。金銭のお繰り合わせも頂きます。もうありとあらゆるおかげが頂ける。そういう仕組みになっているのです、お道の信心の御教えというのは。
私がここでお取次させて頂いて有難いなあと、有難いなあと。何が有難いかわからんけれども、有難い思いで座っとったら、あの障子開けて入ってきただけでおかげ頂いとる。病人が参ってきても、金銭のお繰り合わせ頂いても、それは金銭のはこうだ、病気のことはこうだといって隈々。そのための病気か何かならば、胃の薬又は肺の薬とか違うでしょうけれど。金光様の信心でおかげを受けるということはね、有難いということだけでおかげ頂くのですから。
だから私が今有難いなあーと思っていることを、聞いて貰うたら病人が癒えます。又金銭のお繰合わせ頂きます。そのように霊妙不可思議なものですから、これは食物訓というのは食物を食べるということだけでなくてね、食物訓だけに本気で取り組ませて頂いて、食物を本当に神様が人間の命のために造り与えて下さってあるのであるから、有難い、勿体ないと大事にする。殊に一生懸命になればなっただけのおかげを受ける。それは命の為に下さったのであるから、命を害することに頂いて、かえってお粗末になると心掛けさせて頂くという。それでおかげを受ける。食物訓だから自分の願いと関係ない等と思わずに心からやはり頂かなきゃいけない。
お食物を頂かして頂く時、もう私は、これはとりわけそうなんですけど、今日は先生何もないです。お粥さんを取り敢えず有り合わせのものでと出されるような、この頃は余り恵まれ過ぎてそういうことはないですけど、そういう時ほど私は有難いです。美味しいということじゃないけど、有難いですね。もうそれこそお茶のお点前でもするように、醤油一滴でもお粥のしんのところでも、綺麗に茶せんで洗うようにしてから頂いてる。何とも彼とも言えん程に有難いだから、美味しいから有難い事じゃない。神様のお与えのものを恵みのものとして、それを頂かして貰うときに同時に私どもが、修行中に、常に、お粥さんでも良い、子供やら親達に一ぱい食べさせて上げられたらそれで言うことはないと。そういう時代も通らせられておるから、尚更そうなのかも知れません。
このお粥さんが頂かれとるということが有難い。ですから食物の頂き方でも、私は本当に有難く頂けるところまで研究しなければいけませんね。私はこの御教えの素晴らしさというものはね、金光様の御信心というものは、世界万国にね、通用するんだということはこの食物訓からだけでもそれを感じるのですけどね。命の為に造り与えられたものであるから、食物を大事にせなければいけないとの理を説いたら、誰だってわかる。成程そうであろう、命の為に恵み与えられたものであるから、有難く頂かなければいけないことを誰でもわかる。
ところが、お食事でもそういうものはいかん。そういうもの食べてはいかん。この宗教に入ったらお酒は飲んじゃいかん。この宗教に入ったら牛肉なんか食べちゃいかん等といった厳しい戒律といったものがある宗教というものがあります。これではね、これでは私は、世界中隅々の人間氏子の上に布教することはむつかしいと思う。それは牛であろうが、魚であろうが、お野菜であろうが、それは人間の命の為に造り与えられたものである。だから命の為に頂くのですから、例えば牛だって、魚だって、それで喜ぶ。そこに言うならば本当の成仏があると思うです。
そういう意味からでも、この信心がいかに素晴らしいかということをこの食物訓の御理解を頂く度に思います。かと言うて命の為に造り与えられたものであるから、成程食物は大事にせなければならないけれども、なら食物と命とかけ比べる時に、命の方がもっと大事なのですから、もう何でもかんでも皆食べて仕舞はにゃならんということはない。命のために頂くのです。この辺のところのお道の信心の普遍性と言うものはそういうものを感じます。
だからアメリカの人であろうが、支那の人であろうが、この御教えなら御教えを一度頂いたら、金光様の御信心はすばらしいということになるだろう。まこれは食物訓に対する私の見解なのですけれども、私はこの食物は皆人の命のために天地乃神が造り給うとおっしゃる、ここが、すべてが人間の心が豊かになることのために、すべてがあるのだという風に一つは頂いても良いと思うのですよ。私どもの魂が清められ、心が豊かになることのために世の中のすべてがあるのだということ。困ったことも言わば、甘いことも、苦いことも、臭いことも、魂という命だけがそのためにあるのだということですから、そこのところを大切にしなければいけないことが皆さんわかるでしょう。
そげなことは嫌、そげなことは困るというのでなくて、それが自分の上に、自分の心を癒し美しゅうなる、豊かになるために与えられておるのだと思うたら、そのことを合掌して受けて、それを私は成り行きを大切にするのだということを申します。成り行きを大事にして行かにゃいかん。実意を以て受けて行かにゃいかん。神様がお与えられた、いわば食べ物であるように、神様が与えられた事柄なのだから。
そこでね、御理解八十節、「年寄を大切にせよ」という御教えがあります。これは年寄だけじゃありません。お腹の中に子供が宿っても、神の氏子が腹の中に宿ったと思うて大切にせよとも仰せられる。それは水子であっても、年寄であっても、理屈は同じこと。ところが、世の中にはどうも昔からやはり、その何と言うですか、楢山節考ではないですけれども、年を取ったらもう邪魔になる、働きが出来なくなる、自然若い者がお粗末にする。それこそ、それこそ姥捨山に捨てかねないようなことが世の中には起きておる。家つきカーつきババア抜きなんてのは、ことが流行ってくる。
もう現代の楢山節考ですよ。そこを信心させて頂く心掛けとして、年寄を大切にせよとこう言うとられる、さ、そこで大切にする具合がある。例えば今日は食物を大事にするという具合のところを、命のために与えられるのだから、尊い有難いものとして、大事に頂かなければならん。けれどもより大切なのは命である。だから命を害するために、勿体ないからと飲んだり食べたりしちゃ出来ん。命のために頂かなければ。
なら年寄を大切にせよとおっしゃるから、ま、此頃この部落でも敬老会が有りました。そらもう、それこそお酒を上げたり、美味しいものを作って上げたり、婦人会なら婦人会の人達が踊りやら何かを披露して年寄を大事にする。お年寄りも喜ばれるなら大事にした方も嬉しかった有難かったと言うてお届けがありました。だからそういう風にすることも大事にすることなんですが。
けれども敬老の日だけがね、敬老会の時だけが大事にされるということであったらお年寄りの方は日頃大事にされござらんけん、たったこの日の位のことで喜ばっしゃるばいなあということになって来る。日頃大事にされてござらん。年寄は黙っとかんの、引っ込んどかんのちゅうごたる。常はそう言いよって、その日だけ引っ張り出してきてから、さあ踊りを見せたり、食べ物を食べさせたり、だから大事にすることに、またいろいろな大事に仕方があるのです。
先日から私の父が、今年八十八になります。五月には米寿の祝いをせなければならない、させて頂かなければならないと言うて、御信者の皆さんにまでご迷惑をかけておる矢先に、病み付いた。そして食事が全然頂けなくなってから八日間、私は毎日、普通は毎日行きませんけれど、その容体があまりにも難しそうにしてますからね。もう限りなく咳が出て、もう咳が喉にひっかかったら、もうつまりやせんじゃろうかとゆう。お食事も、もう流動食も余り頂きません。だからもとより自分で起きる力も無からなければ、あお向けに寝てから痰の出るのを母がそっと取ってやるだけ。まあ日に日に衰弱していくばかり、これはこげなことで米寿の祝いも済まさん先に亡くなるようなことがあってはならんと、まあ人間心を使って毎日見守っておりました。
ところが、行くたびにひどくなっとる、今日はえらい機嫌よくしとったちゅうてから母が言ひますけれど、私が行くと行った時だけひどいのか知らんけれど、とにかくひどい状態。それから私は気付かせて頂くことがありまして、その日を限り、八日目ですか、その日を限り、私は行くことを止めました。そして只一心に神様にお願いすることに致しましたら、本当にその日を境に、お食事が頂けることになったんですよね。
だから見舞って上げたとか、食べさせたとか、なでたりさすったりして上げたことだけが、年寄を大事にするということだけではないことがわかるでしょうが。より大切にする生き方があるんだということ。私どもが事柄を、例えば神様が私どもの心を豊かに限りなく美しゅうなるために、様々な事柄が、総てがそうだという風に頂かして頂いて、と同時にです、食物を大切にするようにです、私どもが言うなら年寄を大切にせよと仰せられることだけに、そのことを掘り下げていって、より大切にすることを体得させてもらう。そこから生まれてくる信心、そこから生まれてくる喜びがあるわけです。
先日から合楽会にいって大和さんが発表しとられた。私は昨日そのことを話さして頂いてから、話さして頂きながら感動したんですけど、本当に信心はそれだなと思うのです。発表したことはどういうことであったかと言うと、最近もういろんなから、これを心の限り大切にさせて頂こうと思うて精進しとりますと言うておられる。どのような些細なことであっても、それを本気で大切にさせて頂こうと。そしてです、この位で良かろうではなくて、本当に大切にしぬかせて頂いた、その向こうに喜びがあると言っておられます。
私はここんところをですね、本当に皆さんにわかって頂きたいと思いますね。大切にするということは、自分の心の中に、喜びがその反響があるところまで大事にせなければ駄目なんです。些細なことであっても、それを大切にしぬくということ。私は朝のことですからわかりませんけど、昨日、日田の綾部さんでしたか、毎朝大和さんが参道のところ、砂利のところを綺麗に箒の目立てしてから、毎日あそこを通らせて頂く時に、勿体ない、勿体ないと言うて通りますとこう言うておられる。大和さんが丸きり引き受けられたように御祈念前に掃除をなさるそうです。
私は自分、実際にそれ知りませんが人が、それを言っておる。それこそ、もう心の限りを、例えば砂利の目立てなら砂利の目立てに朝の御祈念前の一時を、それに一生懸命打ち込んでおられる。そこにはね大和さんが発表しとられるように、その向こうに有難いものを感じられる、反響があるというのである。それが尊いだけではない、そこを通らせて頂く人がです、有難い勿体ないと言うて通ると言はれる、そのことの反響がこんなに大きいのです。それが又、大和さんに響き通って来ない筈がない。
ですから、又年寄を大切にするというのもそうであるということになりましょうが。私はある意味合いで父のところを見舞ってから、なでたりさすったりする訳じゃないんですけど、私の顔を見ただけでも喜びが、だから私が行くのをピタッと止めたから、ひょっとしたら淋しかったかも知れんけど、淋しいことよりも体の方が回復した方が実はというとおかげでしょうが。
それから段々お食事を頂くようになりましてから、おかげを頂いてから、先日はお風呂も頂き、昨日なんかも自分一人でお風呂に入るというようなおかげを頂きまして、昨日の月次祭にはちゃんとおかげ頂いとります。この次には又おかげ頂くと、五月の米寿の祝には、本当に喜びで笑えるぞというようなおかげを頂いとります。
年寄を大切にするということでも、只なでたりさすったり、さあ踊りを踊って見せたり、さあ美味しいものを持ってきて、さあ食べろ、もう食べろと持ってきて食べさせることが、あながち大切にするのではなくても、より大切にする生き方があるということ。
それを例えば今日の食物訓から頂いてみますと、食物を大切にするということ、尊ばせて頂くということをです、「食物は」でなくて、「事柄は」「年寄りは」と言う話です。年寄りは、私どもが普通では余り大切にされない。その年寄りを大切にさせて頂くということは、これは年寄りだけのことではない、自分自身のことの為に大切にさせて頂かなければならんということ。命の為に大切にしなければならんということ。
事柄では自分の心を癒し、豊かにならして貰うことの為に、それは甘い事柄であろうが、厳しい事柄であろうが、これは苦いから甘いからというて向こうに押しやるようなことをせずにです、それを合掌して受けて行くという生き方を、成り行きを尊ぶ、成り行きを大切にするということ。
神様が人間の命の為に、命が与えられておるように、事柄は氏子の心がより豊かになることのために、よりお徳を受けることのために与えられてあるんだという頂き方も、また出来るということ。聞いときたいと思いますね。
皆さん例えば年寄りを大切にするということでもです、いろんなことを工夫されねばいけんということ。もう思いの上に於いては大和さんじゃないけど、限りない訳ですから。只思いの限りを尽くすということにはもう限りがないのですから、そういうような世界が顕現されてくる。
信心にともなってそういう人間の生き方が忘れていく世界が開けてくるならです、それこそ有難い、本当の意味に於いての信心共励の実がそこから上がってくるようになってくると、こう思うのです。だからそのことを世界中にひろめたい。これは私の果てないい願いかも知れませんが、けれども願わなければおられない。
そこで、その願いの根本になるところの、私自身の手元のところが、今日申しましたように、食物において然り。事柄において然り。年寄において然り。それを癒し尊び、大切にさせて頂くというところから、私の心の中に喜びが響きかえってくる。おかげが受けられる。そういう喜びの世界を広げていこうと、こういうのである。信心させて頂く者は、そこに信心させて頂く者の責任を感じさせて頂く位なおかげじゃなからにゃいけん。私が有難いのじゃいけん。
それを有形無形の中に、大和さんの参道を綺麗になさっていることがです、そこを通らせて頂く者は、綾部さんだけじゃなか、もうあそこを通らせて頂く人が、どなたがなさるかしらんけれども、いつも綺麗にしてあって、ほんに勿体ない、自分の足形を付けて勿体ないことであると言いながら通ってくるというのである。ですからその反響は広く大きいと思います。そういう元をね、私自身、信心のある者自身が、そこを体得していかなければいけない。どうぞ。